CAPRICIOUS

本を中心として、映画、ドラマ、アニメなどについて気ままに紹介するブログ。「面白い」を見つけるきっかけに。

ブログ移転のお知らせ

「最近ブログの更新がないじゃあないか!」と思っていた方(いないかもしれませんが)すみません。じつは新しいブログをつくっていました。今後はそっちで更新していこうと思います。

まだあまり記事はありませんが、興味のある方は立ち寄ってみてください。

 

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幸福になるためにはベーシックインカムが必要だ。『AI時代の新・ベーシックインカム論』書評

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ベーシックインカムとは、「収入の水準に拠らずに全ての人々に無条件に、最低限の生活を送るのに必要なお金を一律に給付する制度」です。

 

お金持ちも、貧しい人も関係なく、審査などは一切なく、毎月生活していくのにこれだけあれば何とか大丈夫、という金額を受けとることができる制度なのです。

 

たとえば、ベーシックインカムが月7万円だったとします。すると、日本国民全員が、個人単位で、毎月7万円を受けとることができるのです。お年寄りはもちろんのこと、子供も受けとることができます。

 

ベーシックインカムのいいところは、貧しくて困っている人たちを、あますことなく救済できることです。

 

そういう制度なら、「生活保護」があるじゃないか、という意見があるでしょう。たしかにありますが、生活保護はあまり機能しているとはいえません。

 

生活保護を受けられるはずの人がはじかれてしまったり、受給資格がない人が受けとっていたり。受給資格のある人のうち、約8割が生活保護を受けていないといいます。

 

さらにベーシックインカム生活保護とちがう点は、いくら働いて収入を増やしたとしても、給付額を減らされることはない、ということです。月の収入が0円の人も、100万円の人も、ベーシックインカムとして給付される金額はおなじなのです。これで何がいいかというと、労働意欲がそがれることがありません。

 

ベーシックインカムが必要である理由のひとつに、人工知能(AI)とロボットの台頭があります。

 

現在は普通に企業で働いていて、収入もそれなりある人たちが、AIが普及することによって、いっせいに仕事を失ってしまう可能性があるのです。

 

そんな状況になったときでも、ベーシックインカムがあれば、とりあえずの生活に困ることはありません。生活費を受けとれるので、生きていくことはできる。「最低限度の生活」を営むことはできるのです。

 

このことを少し広げて考えてみると、どうでしょう。仕事があって収入もある場合でも、生活が確実に保障されているとなれば、心にゆとりが生まれるのではないでしょうか。あるいは、生活のためといって、とくにやりたくもない仕事を嫌々やる必要もなくなるかもしれません。

 

これこそ目指すべき社会の姿ではないでしょうか。

 

 

『デス・パレード』アニメ感想

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立川譲/「デス・パレード」製作委員会

この作品の第1話で、登場キャラクターたちが、置かれている状況がわからずにとまどうシーンがある。これは視聴者が置かれる状況もまた、もおなじかもしれない。最初からすっきりとはわからない。どういう話なのか、どういう世界観なのか、どう展開していくのか。

 

そこで引きつけられるか、つまらないと思うかで、視聴をつづけるかどうか決めてしまってもいいと思う。

 

アニメをよく視聴していると、パターンのようなものが見えてしまうことがある。見覚えのある展開で、そこから先がどうなっていくのか、がなんとなくわかってしまう。それでも楽しめることはある。でも、ハラハラしつつ画面から目がはなせないような作品もやっぱり見たくなる。そんな作品がこの『デス・パレード』だった。

 

どんな話かというと、死後の世界にいるバーテンダー(BARにいてお酒をだす人)が死者の魂を“裁定する”というものだ。

 

裁定とは、OKかNGかを決めるということ。この作品の場合は、死んだ人の魂を「転生」させるか「虚無」におくるかを判断するのだ。バーテンダーが。

死者を送る先が、「天国」か「地獄」ではないのが面白いところ。

 

人の魂を裁定するうえで重要なのは、その人間の本性をさらけ出させる、ということ。本性やこころの闇をみるために、ゲームをおこなう。そのゲームのなかで、魂の純度が明らかになっていくのだ。

 

ここが、死者たちがその本性をさらけ出していく様が、なかなか見ごたえがあると思う。普通にきれいなこころをもっている人もいれば、どうしようもなく汚れている人もいる。いい人がいれば、悪い人がいる。天使がいれば、クズがいる。

 

そんな人間の醜さをみてうんざりするかといえば、そんなことはない。むしろほっとするのだ。「そうだよな。人間ってきれいなだけじゃないよな」と。

 

そしてまた、ひとりの人間をきれいか、汚いかできっちりとわけられるわけでもないのだ。

善と悪のはざまで揺れ動く人間の感情。そのこころのちょっとした、繊細な動きをとても上手く描きだしていると思う。

 

これはひとによるかもしれないけれど、たぶん一気に見たほうが楽しめる作品だと思う。全体的に暗い(例外もあったが……w)から、少しずつだと見ていられないと思う。

 

そういえば、このアニメはジャンルがよくわからない。ロボットとかラブコメとか異世界ファンタジーというようなわかりやすいジャンルづけがしにくい作品だった。

 

人間心理?ヒューマンドラマ?少なくともアニメ作品ではほかにないタイプの作品だったと思う。その新鮮さが面白さにつながっているのかもしれない。

 

あ、言い忘れるところだった。このアニメのOPは、暗めの本編とうって変わって、明るくてエネルギッシュでセンスが抜群だ。発注を間違えたのかとすら思ってしまう、本編とギャップのあるOPだけでも、一見の価値がある。

 

 

読むとはこういうことか! 『図書館の魔女 第二巻』感想

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こんなにいろんな読みかたができる小説もめずらしい、と思います。いくつもの要素が盛り込まれていて、読み進めるごとにちがう顔を見せてくれることに驚きます。そのせいか、第二巻でも面白さがまったく衰えるところを知りません。

 

どんな読みかたができるのかあげてみましょう。諜報・スパイ小説、書物や言葉の歴史、言語学・文献学、冒険小説、政治小説、外交小説……。人によっては、これら以外にもまだまだいろんな読みかたを思いつくことでしょう。

 

いろんな要素があるから、つぎに何が起こるかわからない、予測不可能なのです。かといって物語が破たんすることもなく、読者を引き込みつづけていく。少なくともわたしが読んできたエンターテインメント小説のなかでは、最高峰だと思いました。

 

どうしてここまで面白いのか。その理由のひとつは、著者が自身の得意分野を上手く物語に溶かし込んでいるからだと思います。言語や書物、文献についてヒロインが語るシーンは、さながら講義のよう。それでいて、押しつけがすぎることもなくうん蓄くさくもない。

 

著者の技量あってのことでしょうが、小説のちからってすごい。

 

ともあれ、まったく期待を裏切らない文庫版の第二巻でした。第一巻を読んで気に入った人はまちがいなく楽しめるでしょう。

 

美術展「ポーラ美術館コレクション モネ、ルノワールからピカソまで」レポート②

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この美術展のレポート、書きはじめてみると思いのほか長くなりそうだったので、いくつかにわけることにしました。1つの記事が、あんまり長ったらしいと読みづらいですし。

 

さて、印象派というのは、美術の歴史のなかでも当時はかなり異端とされていました。その印象派も、皆がみんなおなじような絵を描いていたわけではありません。もちろん、共通している部分もあります。

 

展覧会をじっさいに見に行くことで、そうした共通点とか相違点を、なんとなく感じられたように思えます。

 

印象派といえば、それまでの伝統にとらわれない個性的な絵画、というイメージがあります。じっさい、印象派のなかでくらべてみても、それぞれ描く対象や描きかたはちがいがありました。

 

それでもやはり、展示された印象派やそれにつづく画家の絵を見ていくと、一連の流れのようなものを感じとることができました。画家それぞれの個性はありつつも、根っこのところではおなじもの共有している。これはとても不思議な感じがしました。

 

本などでバラバラに見ているだけではわからなかった。それが美術館という空間に整然と配置されることで見えてくるものがある。これは新しい発見でした。

 

本や画集にはない、その美術展だけの並びかた。この美術展を企画した、キュレーターや美術館の関係者たちが知恵とセンスを絞りきって考えたものだと思います。そう考えると、美術展それ自体がひとつの作品なのかもしれません。

 

ポール・セザンヌは厳密にいえば、印象派ではないかもしれません。ですが、印象派の影響はまちがいなく受けている、とセザンヌの絵を見て思いました。

 

というのも、アルフレッド・シスレーの作品を見て、一瞬セザンヌの絵かと思ったからです。

 

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アルフレッド・シスレー《マルリーの水飼い場》

 

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ポール・セザンヌプロヴァンスの風景》

 

どうでしょう。なんとなく絵のタッチが似ていると思いませんか?

木々の描きかたとか、全体的にどっしりした感じとか似ているような気がしました。

 

知っている画家のまったく知らない作品を見ることができるのも、美術展の面白いところです。たとえば、パブロ・ピカソピカソについての本や画集は何冊か読んでいて、知っているつもりになっていました。ところが、展示されていたピカソの絵はどれもまったく知らないはじめて見るものばかりでした。

 

もっとも、ピカソがその生涯のうちに描いた絵は数万点にもなるといいます。版画や彫刻を含めたらさらに多いでしょう。美術の教科書やピカソについて書かれた本に出てくる絵は、全作品のうちのほんの一部だったのですね。

 

ピカソ作品のなかではそこまで有名ではない絵を見て、ピカソの革新とか前衛といったものを垣間見られたような気がしました。《ゲルニカ》や《アヴィニョンの娘たち》といった、有名で解説もたくさんある作品ならば、平然と見られたかもしれません。

 

ところが、ピカソの絵から何かを感じとるのは、はてしなくむずかしいということがわかりました。印象派やそれにつづくポスト印象派などは、「革新的」などといわれています。しかし、その美術の流れのなかでも、ピカソの作品はズバぬけてわけがわからない。かなり異色な画家なのだということが理解できました。これは本当です。

 

当時、はじめてピカソの作品、とくにキュビスムの絵画を見た人たちの衝撃は想像を絶します。反射的に酷評してしまうのも無理はない、と思ってしまうほどです。

じっさいにその衝撃を疑似体験できたことは、とても貴重なことでした。

 

この美術展で展示された絵画は、すべて日本の箱根にある、ポーラ美術館のコレクションだそうです。これだけの絵画、西洋美術のなかでも人気の高い印象派やその周辺の絵画をよく集められたなあと思いました。

 

よほど慧眼の持ち主がいたのでしょう。その人のおかげで、こうして日本にいながら印象派の絵を見ることができるのですから、感謝しかありません。

 

ちなみにこの美術展、「ポーラ美術館コレクション モネ、ルノワールからピカソまで」は、このあと茨城県近代美術館でも開催される予定になっています。関東にお住いで、印象派や美術に少しでも興味のある人はぜひ足を運んでみてください。

 

開催期間:2018年9月4日(火)~11月18日(日)

美術館の住所:〒310-0851 茨城県水戸市千波町東久保666-1

 

くわしくは以下のURLをチェックしてもらえるといいと思います。

 

茨城県近代美術館HP

  

「ポーラ美術館コレクション モネ、ルノワールからピカソまで」特設ページ

 

あとで知ったことですが、この美術展は全3か所で行われるようです。第1回が福島県、第2回が岡山県、そして第3回が茨城県

 

東北、関西、関東とできるだけ多くの人に見てもらえるように、との意気込みを感じますね。こういう美術展はめずらしいのではないかと思います。じっさい、それだけの価値がありました。もっともその価値をすべて汲みとることができたかどうかはまたべつの話ですが(笑)。

好きなことを仕事にするのに、取り除くべきは心理的なハードルだけ。

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「好きを仕事にする」。

 

まだ何者でもないひとにとっては、自分が好きなものについて自信が持てないのではないかと思います。好きなことを仕事にして成功したというけれど、自分も同じようにできるかどうかは別問題。

 

好きなことに向かおうとするけれど、どうしても成功が頭にちらついてしまう。それが本当に自分の好きなことなのかもわからなくなってしまう。

 

好きなことを仕事にしているひといわく、「誰にでも好きなこと、やりたいことのひとつやふたつはある」。

 

たしかにそうかもしれません。でもそのなかのどれが成功に導いてくれるのかわからない。ビジネスとして成功できるかがわからないのです。

……と考えていて気づきました。はじめから成功が約束されているものなんてひとつもないのだと。好きで成功したひとも最初は不安な気持ちをもっていたのかもしれない、と。

 

どうしても自分の好きなことがわからないなら、興味のあることでもいいのかもしれません。そして、それはひとつでなくてもいい。あとで軌道修正などいくらでもできるはずです。

 

興味のあることにどんどんもぐっていく。あ、これなんかちがうな、と思ったらすぐにやめる。そしてべつの面白いことをさがす。

 

自分の場合、何をするにもすぐに正解を見つけようとしてしまうきらいがあります。これはもともとの気質なのかもしれない。ひそかに義務教育の弊害なのだろうと思っています。

 

残念ながら、この現実世界に完全な攻略本などというものはありません。現実は、箱庭ではないのですから。でも、だからこそ、シナリオも攻略法もないからこそ、挑戦することには価値があるのかもしれません。

 

「事実は小説より奇なり」という慣用句があります。これは、フィクションよりも現実のほうがすごいことが起きるという意味ではありません。フィクションよりノンフィクションのほうが何が起きるかわからない、という意味なのです。

 

現実の出来事を完全に予測できるひとなどいません。現実はまったく予測不可能です。だから、挑戦してもどうせ失敗する、などというのはまったく根拠のないことなのです。失敗するかもしれないし、“成功するかもしれない”。これが正しい予測なのです。いや、こんなものは予測といいませんね。

 

なかなか自分の好きなことに向きあえない理由としては、まだほかにもありそうです。それは失敗に対する恐怖です。

 

現実は予測不可能なのだから、失敗することももちろんある。と頭ではわかっているのに、恐ろしくてしょうがない。なんというか、細胞レベルで失敗に対する恐怖が刻み込まれている気がします。

 

自分の好きなこと、本当にやりたいことに向き合えない理由がここにあると思うのです。

 

好きでもないことで失敗する。これならとくに傷つかないし、プライドも守られます。好きでもないということは、どうでもいいということですから。

 

けれども、もし好きなことで失敗したら……。

好きでもないことはやりたくないし、好きなことも上手くいかなかった。これが本当にこわい。その瞬間に人生が完全に閉ざされてしまったかのように感じてしまう。冗談ではなく。

 

だから、そうならないために本当に好きなことは残しておくのだと思います。細々と、リスクをとらず、内輪だけに。

 

これもひとつの選択だと思います。

 

でもその前に少し考えてみます。失敗とはそもそも何でしょうか。

 

辞書には、「やってみたが、うまくいかないこと。しそこなうこと」と書いてあります。

 

うまくいかないよりは、うまくいくほうがいいに決まっています。ですが、うまくいかなかたとしても、そのまま放置するでしょうか。ほとんどの人は、そのあと、どうやったらうまくいくのか考えるのではないでしょうか。この時点で、すでに成功への道を歩みだしていて、失敗は失敗でなくなっていると思うのです。

 

すばらしい言葉があります。それは、「失敗は成功のもと」。

「失敗をしても、それを反省し欠点を改めていけば、やがては成功する」という意味の慣用句です。

 

極端にいえば、「死」以外のことは、すべて失敗ではないのかもしれません。失敗したとしても、それをすべて成功のための糧にしてしまえばいいのです。

 

死んでしまったらもう挑戦することはできません。が、生きていれば挑戦しつづけることができます。なにも大それたことをしなくたっていいのです。ほかの人から見たらなんてことのない小さな挑戦でも、自分にとっては大きな挑戦かもしれません。それでいいのです。

 

挑戦しつづければ、失敗は失敗ではなくなります。いつかやってくる成功への“布石”になるのです。

美術展「ポーラ美術館コレクション モネ、ルノワールからピカソまで」レポート①

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岡山県立美術館にて開催されている美術展、「ポーラ美術館コレクション モネ、ルノワールからピカソまで」に行ってきました。

 

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印象派の絵画を生で見るのははじめて。やはり本や画集でみるのと、目のまえで実物をみるのとでは、絵から受けとれる情報量が格段にちがいました。画家が本当にその絵に筆をいれたことがより現実的な感覚としてわかるのです。同じ絵をみているはずなのに、印象がまったくちがう。実物は絵がいきているような気がしました。

 

絵をみながらひとつ気づいたのは、すみに画家のサインがあるということ。サインがあること自体はべつにおかしくはありません。しかし、印象派やその前後の画家たちがじっさいに存在していたという証拠をみて、感嘆の声をあげてしまいました。

 

この美術展で展示されているのは、モネ、ルノワールセザンヌゴーギャンマティスピカソといった画家たちの作品72点。印象派からポスト印象派、そしてキュビスムへの流れをみることができるようになっています。

 

上にあげた6人の画家の絵画だけが展示されているわけではなく、それ以外の画家の作品ももちろんみることができます。

 

公式HPでは、いくつかの絵画がのっているだけで、どの画家のどの作品が展示されるのか、くわしいお知らせはありませんでした。これはたぶん美術展においては一般的なことなのでしょう。実際に展覧会に足を運んで、そこではじめて絵画や画家との出会いがある。それは美術展に行くことのひとつの楽しみだと思います。

 

じっさい、行く前に想像していたことと食い違っていることはありました。たとえば、いくつかみられると思っていたゴーギャンの作品。これは展示されていたのは、1点だけでした。美術展をあとにして、そういえば、ゴーギャンの絵がなかったような……と気づいたほどです。

 

今回の美術展に行く前に印象派やその周辺の画家、絵画にかんする本を読んでいました。展示される絵画の画家のうち何人かは発表されていますから、それらの画家を中心に読んでいきました。それでもどの作品が展示されるかまではわかりません。それを想像しながら、本を読んで知識をたくわえていくのも、また美術館に行くのと同じくらい楽しい時間でした。

 

画家についても新しい出会いがありました。モネやルノワールピカソなどは、超がつくほど有名な画家です。印象派やその流れをくんだ画家には、それ以外にもたくさんいます。

 

そうした一般的にはあまり知られていない画家。本にもほとんど書かれていないような画家と、何の心構えもなくぶっつけ本番で、向き合うことができるのもまた、美術展に行く醍醐味のひとつです。

 

知っている絵、有名な絵だとみつけたときは、ある種の安心感があり、自然と笑顔になります。しかし、美術館ではじめてみる絵はちがいます。自分のなかに刺さったような感覚があり、衝撃でおもわず足がとまります。

 

絵の横にあるプレートを確認してまったく知らない名前があると、うれしくなります。おそらく本を読んでいるだけでは、出会えなかったかもしれない絵と画家。自分と絵画を引きあわせてくれた美術展に感謝すらしました。

 

この美術展のひとつの大きな特徴は、一部の作品に限って、写真をとることができるということです。

 

1章、2章、3章という3部構成になっていて、このうち1章部分で展示されている作品が写真撮影OKになっていました。この1章はモネやルノワールが中心になっている部分です。

 

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クロード・モネの《ジヴェルニーの積みわら》

 

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ルノワールの《レースの帽子の少女》。美術展のキーヴィジュアルにもなっています。

 

この美術展にはとても満足しました。絶対あとで見返したくなるだろうと思ったので、図録を買ってしまいました。